奇妙な問い

1.
類比によって、異なった使用をもつ言語ゲーム同士が混同されるとき、たとえば、不適切(的外れ、irrelevant)な問いが生じる。

次の例を見よう。

 「私はビショップを動かす。」―「どれだけの間、君はうごかすのか?」(LPPⅠ3)

 ここにあるのは(象徴的行為としての)「チェスの手を指す」という「行為」 の時間様態(言語学でいうAktionsart)に関する誤解である。
それを例えば「全力で走る」のような行為(Vendlerの分類におけるactiyity)と同様の時間様態をもつと誤解することからこのような問いが生まれてくる。しかも、現実に「チェスの手を指す」場合、駒の動き自体は一定の時間間隔内に起きることが、混乱を引き起こす。(上の問答が過去形であれば、実際に駒を運ぶのにかかった時間がどれだけかを問う問いとみなされることも可能であろう。)

(cf.PI149「チェスを指せる」という概念についての例)

次の例は、言語ゲームの目的および関心と、「不適切な問い」の関心とのずれを示している。

「わたくしは・・・を望む」というのはある心の状態の記述だろうか。心の状態には持続がある。「私は一日中・・・を望んでいた」というのはまさにそのような記述である。しかし、わたくしが誰かに「わたくしはあなたの来るのを望んでいる」と言う場合、ー彼が「お前はどれくらいの間それを望んでいるのか」と尋ねたとすれば、どうだろうか。「わたくしは。自分がそう言っている間、望んでいる。」というのがそれに対する返答だろうか。わたくしがこの問いに対して何らかの返答をしたと仮定せよ。その返答は「わたくしはあなたが来るのを望んでいる」という言葉の目的にとってはまったく無関係irrelevantではないだろうか。(Z78 菅豊彦訳)
 

 irrelevantな問いは、無意味には聞こえないかもしれないが、奇妙に響くであろう。

 しかじかの文には意味がない、とうことは、哲学においては重要である。しかし、しかじかの文は奇妙に聞こえる、ということも同様である。(Z328 菅訳 cf.RPPⅡ720)

 2.
ただし、しばしば、事態は明快には裁断できないだろう。「奇妙な問い」も、特別な状況に置かれれば、実践的な意味を持ち得るだろうから。

「君が成功して、私は嬉しい!」-「どれくらいの時間嬉しいんだ?」。奇妙な問いである。しかし意味を成しうるだろう。この問いへの答えは次のようなものかもしれない。「私が君の成功について考えているときはいつもだよ」。あるいは、「最初は嬉しくなかったが、それから変わったんだ」。あるいはまた、・・・(LPPⅠ2 古田徹也訳) 

 irrelevantな問いも有効に使えるような特定の状況を考えることが可能な場合があるし、有効な状況とそうでない状況とを明快に切り分けられないことが往々にしてある。だからといって、irrelevantな問いが、あらゆる場面で適切relevant でありうると考えるならば、それは誤解である。

3.
感覚への類比、それが生み出す時間様態の混同、問いの適切さに関わる混同、これらの連関は、次の断章の中に、典型的に示されている。

 「彼は一秒間はげしい痛みを感じた。」-「彼は一秒間深い悲哀を感じた」というのがなぜ奇妙に響くのか。単にそれが滅多に起こらないからなのか。
しかし、君はいま悲哀を感じていないか?(「しかし、あなたはチェスをしていないか?」)肯定的に答えることは可能だが、だからといって、悲哀という概念が感覚概念Empfindungsbegriffに類似したものになるわけではない。-この問いは、本来、特定の時間と個人に関わる問いであって、われわれが問おうとした論理的な身分の問いではないのである。(PPF3,4)cf.PI 583