分類と展望

1.
ウィトゲンシュタイン心理的概念のなかに見出した差異、中でも重要なものは、一つは志向性に関連する対立であり、もう一つは時間様態をめぐる差異であった。そして両者は連関していた。

RPPⅡ45において、通常の感覚は<意識状態Bewußtseinszustand>とされていた。では、<真の持続>をもつものは、すべて<意識状態>なのだろうか?また、<体験>と<意識状態Bewußtseinszustand>や<真の持続>との関係は?

ここでそれを検討する余裕はないが、少なくともこれらを安易に同一視してはならないことに注意したい。
(なお、RPPⅡに登場した<意識状態Bewußtseinszustand>や<心的傾性seelische Disposition>という言葉は、その後定着的には使用されなかったように見える。)

2.
ウィトゲンシュタイン自身、これらの概念を矛盾なく組み立てることに興味はなかったと思われる。彼に好意的に考えるなら、それらの対立軸は差異を示すための仕掛けであり、彼自身が心的概念の精緻な分類そのものを目的としているのではなかったからであろう。

 知ること、信じること、希望すること、恐れること等々はあまりに多種多様な概念であるから、これらを分類し、いろいろな引き出しに整理することは、我々には無益なことである。しかし、我々はそれらの間の差異と類似を認識したいと思う。(LPPⅠ122)

 ウィトゲンシュタインの議論そのものが、「日常言語」における「体験」「意識」等の言葉の、一般的な了解と使用に依存して行われているが、それらの了解内容には曖昧な部分があり、実際に使われる際の条件は、複雑で多様である。いろんな場面での使用をつき合わせてみれば、様々な矛盾が生じてくるかもしれない。

3.
先に取り上げた<意識状態>という概念に関連するが、
「意識しているbewußt sein」や「・・・と見ているsehen」の曖昧さについて、彼はこのように記している。

 「きみは、この葉をいつもであると見ているのか?つまり、それを見るとき、その色が君にとって変化しない限り、ずっと?」この問いは明確な意味をもっているだろうか?答えはあるいは、こうかもしれない。「そうだね、わたしは「ああ、なんとであることか!」と、ずっと言いつづけはしないね。」(LPPⅠ720)

「君はそれの色彩をその時間中ずっと、意識しているのか?」 私の最初の応答は、「確かに、そうではない!」であるかもしれない。だが、いつ、どれだけの間、それを意識するのか?それについては、私にはまともなことを言うことはできないようだ。;というのも、ここでどのような規準が適用されるべきなのか、私は知っていないから。「私がそれについて考えている間だけ。」と答えるべきだろうか?
(LWⅠ721、cf.PPF242)

 彼はここで強いて結論を出そうとはしていない。

4.
彼は、心理的概念をいくつかの単純な対立概念で分類しようとしているわけではない(cf.PPF202)。前回引用したZ81の傍注が示すように、時間様態と注意の連関も、一本の単純な線で分割できるようなものではない。あくまで考察は、実際に行われている言語ゲームに即して行われなければならないのだ。

 心理的諸概念の系譜。私が求めているのは厳密さではなく、眺望がきくことÜbersichtlichkeitである。(RPPⅠ895 佐藤徹郎訳)

 そもそも、「われわれの文法は展望性Übersichtlichkeitを欠いている(PI122)」と認めていたのは彼自身であった。にもかかわらず、ここでは、現に在るわれわれの言語と「われわれの文法」に頼りながら進むほかはないのである。