『哲学探究』第Ⅱ部xi

1.
従来、アスペクト視の議論を含む『探究Ⅱ』第xi章は知覚論として捉えられることが多く、例えば「知覚の理論負荷性」というテーマの下に論じられたりしてきた。確かに、第xi章及び関連する遺稿では、見ること、解釈すること、考えることの関係が主題の一つになっている。

 では、私が群集の中に、おそらくはその方向をしばらく眺めた後に、知人の姿を認めたとするーこれはある種の見ることなのであろうか?あるいは、見つつ考えることなのか?それとも、私はほとんどこう言いたくなってしまうのだが、両者の融合なのであろうか?
問題は次のことである:なぜこのように言おうとするのか?(PPF144)

私はこう言いたい。ある図形をこの解釈に従って見ることは、その解釈について考えることである、と。(・・・)私はやはり一つの解釈を見ているのであり、解釈とは思考にほかならないのである。(RPPⅡ360 野家啓一訳)

これらの『ラスト・ライティングス』において、ウィトゲンシュタインが特に関心を持った概念は、<考えること>と<見ること>であった。なかでも、その2つの概念の関係に、彼は関心を寄せた。ある種の考えることでもあるような(少なくとも、ある種の理解することであるような)見ること、すなわち、つながりを見る、ということが存在する。それが、彼の後期の著作全体にとって枢要な観念であった。(Monk,Ludwig Wittgenstein, Ch25)

 ここでも考察の根底にあるのは、(<見ること>と<考えること>の)類似と差異という観点である。

 -それでは、ここに存在するのは見ることと考えることの間にある現象だ、と私は言うべきだろうか。違う。だが、見るという概念と考えるという概念の間にある概念、つまり、両者に類似性を持った概念だとは言える。また、見るという現象および考えるという現象に似かよった現象だとも言える(例えば、「私にはFが右を向いているように見える」と発言する現象)。(RPPⅡ462 野家訳)

cf.LPPⅠ179

 2.
ともかく、アスペクト視を含めた視覚についての考察が含まれるxi節がPPF全体の中で突出して大きな分量を占めていることは事実である。
xi節を知覚について論じた章であると総括してしまうなら、そこから、PPFの中心主題は知覚論である、とする通念も生まれてくるかもしれない。

 そうして、「探究」の第Ⅱ部はひとつの知覚理論として読まれ、あるいはゲシュタルト心理学に対するコメンタリーであると読まれることになる。かくして、「規則に従う」ということを中心概念として展開されてきた第Ⅰ部の議論が、第Ⅱ部に入って知覚論に転じたかのような印象を与え、第Ⅰ部と第Ⅱ部は決定的に分裂してしまうのである。(野矢茂樹、規則とアスペクト 『哲学探究』第Ⅱ部からの展開)

 確かに知覚の問題は伝統的に哲学の大きなテーマであった。しかし、なぜここでアスペクト知覚が論じられるのか?

 L・ウィトゲンシュタインが書いたもので、その動機、意義、目的などが完全に明確であるものなど皆無であると言えばそれまでである。(・・・)それでも、『哲学探究』(Pilosophische Untersuchungen:PU)第二部のおよそ六割をも占める第xi章は、群をぬいて謎めいていると思われる。(荒畑靖宏、アスペクトの恒常性と脆さ)

 その「動機、意義、目的」について、判然としない想いを抱く人は多いに違いない。

野矢が批判しているように、アスペクト論を知覚論として(のみ)とらえるならば、『探究Ⅰ』とのつながりをとらえることは難しいかもしれない。『探究Ⅱ』は『探究Ⅰ』を直接に改訂するためのものなのではなく、別個の仕事であるとする説が現在では有力になっている。だが、『探究Ⅰ』と『探究Ⅱ』は、ただ単に別個の論究であって、テーマに関連はないのであろうか?

上に引用した野矢の論文では、「アスペクト盲」「意味盲」の問題から、第Ⅰ部『探究Ⅰ』の規則遵守の問題とのつながりが論じられている。
それとは別の観点から、関連を浮かび上がらせてみたい。

忘れてならないことは、ウィトゲンシュタインの関心が、アスペクト知覚の現象と同時に、(もしくはそれ以上に)アスペクト知覚に関する言語ゲームに向かっていることである。

そこで、アスペクト知覚に関する言語ゲームと、他の言語ゲームとの類比という、ウィトゲンシュタインに即した手法によって、つながりを浮かび上がらせることができるのである。