類比という方法

1.

他方、「類比」は、ウィトゲンシュタインの言語批判において、主要な手法の一つである。
例えば、一見遠く離れている言語活動の中に、共通した相を浮かび上がらせること、つまり類似性を浮き彫りにしてみせることは、ウィトゲンシュタインの用いる、重要で際立った手法である。

 「知る」という語の文法は、明らかに「できる」「可能である」といった語の文法に非常に類似している。しかし、また、「理解する」という語の文法とも大変に類似している。(ある技術を<マスターしている>こと)(PI150)

「感覚は私的なものだ」という文は、「ペイシェンスは1人でプレーされる」に比較される。(PI248)

「あのとき、私は・・・と言いたかった。」という表現の文法は「あの時私は続けてゆくことができたのに」という表現の文法に近似している。(PI660 藤本隆志訳)

 これらは諸々の言語ゲームを差異と類似の網の目のなかで見る、という方法の実践である。つまり異なった言語ゲーム同士を類比して見る、比較する、という方法の。
類比は、哲学的問題を引き起こす当のものであると同時に、そこからの脱出へと導く手がかりでもある。

 展望のきいた叙述は理解を仲介するが、この理解はまさにわれわれが<連関を見る>ということにおいて成り立つのである。それゆえ、連鎖の環を見出し、あみ出すことが大切である。・・・(PI122 藤本訳)

 すなわち、類比による連鎖の系列を見ることが、ウィトゲンシュタインの言う「治癒」へ導く主要な方法なのである。

 われわれの明瞭で単純な言語ゲームは、将来に言語を規制することを目指した予備研究なのではない、-すなわち、摩擦や空気抵抗を考慮に入れない最初のモデルではないのだ。むしろ、それらの言語ゲームは比較の対象Vergleichsodjekteとして提示されている。そして、類似と相違を介して、われわれの言語の実情に光を投げかけるはずである。(PI130)

 

したがって、ウィトゲンシュタインにおいて、「類比」、「類似」等は、かって黒田亘が「言語ゲーム」について言ったように(『経験と言語』)、事実に関する概念であると同時に、方法に関わる概念でもあると言えるだろう。

事実に関する概念として:「言語」と呼ばれるもの同士の家族的類似、類比による言語ゲームの拡張、類比による哲学的混乱の発生、等。

方法に関する概念として:ある言語ゲームを別の言語ゲームに類比して見る。逆に、ある言語ゲームを表面的に類似する別の言語ゲームとの相違において見る、等々。