『哲学探究』第Ⅱ部

1.
数学論に変わって、ウィトゲンシュタインの考察の中心(「メインストリート」)となったのが、「心理学の哲学」、すなわち、心理的概念に関する考察である。
それについて、ウィトゲンシュタインの存命中に、最後にまとめられたタイプ原稿が、『探究Ⅱ』である。
このタイプ原稿が直接に何の目的でまとめられたのかは明らかでないが、現在では『探究Ⅰ』からは独立した仕事とみなされており、Philosiphical Investigations 4th editionでは、Philosophy of Psychology -­A Fragment『心理学の哲学-断片』と改題されている。
ただし、ウィトゲンシュタイン自身は、現在残された形での出版は考えていなかった。
「われわれがここに提示した『心理学の哲学-断片』は、『探究Ⅰ』と異なり、完成途上のものであったことを、読者は心に留めておかれるように。」と、Philosiphical Investigations 4th editionの編集者は序文に記している。

2.

敢えて「著作」として見た場合、2つの遺稿(『探究Ⅰ』と『探究Ⅱ』)の与える「感触」は、かなり異なる。読者に一定の配慮をしつつ自らの方法に導き入れようとする『探究Ⅰ』の開始部に対して、『探究Ⅱ』は、ぶっきらぼうに「ある動物が希望することを、ひとは想像できるか?」という問いで始まる。両者の分量的な差も著しく、『探究Ⅱ』のページ数は、『探究Ⅰ』の1/3程度である。主題による章分けのない『探究Ⅰ』と対照的に、『探究Ⅱ』の方は iからxivまでのセクションに分かれており、xiを除けば、一つのセクションは高々数ページからなる。それぞれのセクションは、大なり小なり、内容的なまとまりを持っている。だが、長大なxiは、アスペクト視等、視覚に関する考察から始まって、アスペクト盲の話題を経由し、意味の体験を論じ、さらに「内なるもの」と「外なるもの」(『ラスト・ライティングスⅡ』の副題にもなっている)のテーマに移行してゆくという、特異な構成をもつ。(この構成は、もとになった手稿MS137-138の内容の流れを反映している。)

3.

もともと『探究Ⅱ』は、共通した主題について考察を繰り返したタイプ稿、手稿から抜粋され配列されたものであるが、『探究Ⅰ』と比べると、より断片的で、寄せ集めといった性格が強い。断章の多くは、もとの文脈から離されてしまい、それぞれの簡潔さと全体の分量の少なさも相俟って、容易に理解しがたいものになっている。また、平易な言葉遣いにもかかわらず、あたかも上流から長い距離を転がってきた石のように、滑らかな表面故に掴みがたい、といった印象を与える。
例によって、ウィトゲンシュタインが自分の用いる術語に明確な定義を与えることはない。「経験Erlebnis,Erfahrung」「知覚」「叫びAusruf,Schrei」など、彼の議論にとって枢要であるはずの概念もその例外ではない。まず、そのことが、読者の理解を大きく妨げている。

4.

もっとも多くの断章の元となったのは、手稿MS137-138(『ラスト・ライティングスⅠ』として出版)である。それに比較して、先行するタイプ稿(『心理学の哲学Ⅰ』、『心理学の哲学Ⅱ』として出版された)の方が、ウィトゲンシュタインの問題意識が比較的分かりやすく表出されているように思われる。この2つのタイプ稿からもかなりの数の断章が『探究Ⅱ』に採用されているが、『ラスト・ライティングスⅠ』に比べれば少数である。
他方で、『断片』をめぐる『心理学の哲学Ⅰ』『心理学の哲学Ⅱ』と『ラスト・ライティングスⅠ』の対照には注目していいだろう。『ラスト・ライティングスⅠ』、即ちMS137-138から、『断片』へ収録された断章はごくわずかであり、なおかつ内容的に同じものが『心理学の哲学Ⅰ』『心理学の哲学Ⅱ』にすでに登場している(cf.Z300とLWPPⅠ139,RPPⅡ403等)。それに対し、『心理学の哲学Ⅰ』『心理学の哲学Ⅱ』から、多くの断章が『断片』に保存されている。内容的には、『探究Ⅱ』では大きくは取り上げられなかった数々のテーマ(例えば、「思考」)についても選出されていることが注目される。また、「心理学の哲学」以外の、中~後期ウィトゲンシュタインの思索全般にわたる幅広い内容を、『断片』は含んでいる。

5.

『探究Ⅱ』と『断片』ー両者とも手稿、タイプ稿からの抜粋、推敲、追加によって成るものの、一方はまとまったタイプ稿に仕上げられ、一方は、カードの集積の状態のままに終わっている。
この2つの「仕事」の関係、位置づけをどう考えるか、どのような理由で『探究Ⅱ』の諸断章が選出されたのか、両者のテーマの違いをどう捉えるか、といった問題は、「心理学の哲学」の内容を深く把握する上で重要だろう。だが、実際にそれに答えることは非常に困難である。
『探究Ⅱ』の構成については多くの謎が残るが、『心理学の哲学Ⅰ』『同Ⅱ』、『ラスト・ライティングスⅠ』『同Ⅱ』、『断片』をあわせて読むことで、ウィトゲンシュタインの「心理学の哲学」に対する理解を少しでも進めてゆくほかはないだろう。

6.

「心理学の哲学」の読解は 重要な課題である。ただし、無理を承知の上で、あらかじめ道筋をつけておかねば、すぐに先へ進むことが困難になりそうだ。
そこで次回以降、まずウィトゲンシュタインの方法一般を「類比」という観点から検討し、「心理学の哲学」における彼の手法の概観を試みる。その上で、心理学の哲学の主要テーマのいくつか、すなわち、①「私的言語論」、②表出Äußerung、③アスペクト知覚と意味の体験、④感覚と判断 のそれぞれについて、イントロダクションのつもりで順に触れる。そのなかで、「心理学の哲学」と数学論という2つのメインストリートのつながりについて、いくつかのことを指摘したいと思う。