歩行 展望 記憶

1.
 さて、先に引用した講義の約6年後の(アラン・チューリングが出席し、応答していることで有名な)数学の基礎に関する講義の中でも、ウィトゲンシュタインは何度か道路や歩行の比喩を持ち出している。

その中に、次のような例がある。ある日、彼は数学的概念について、「それは平凡なものだ。(It is pedestrian. )」と語っている。すなわち、「歩くもの(pedestrian)」なのだ、と。

 (図を示して)私が、これが4次元の立方体だ、といったとせよ。それは、それで良い。;でも、ここに何も驚くべきものなどはない。それは不可思議なものではない(It is pedestrian)。(WLFM, p253、図は省略。)

計算(計算のシステム)は、それが在るように在るのみである。それは、使用を持つか、持たないかである。(・・・)それは、どの計算体系とも同様に、平凡なもの(pedestrian、歩くもの)、4次元立方体と同様に平凡なもの(pedestrian)なのだ。自分たちが、知られざる深遠なものを覗き込んでいるなどと考えるとしたらーそれは誤った表象から生じているのだ。
(WLFM, p254)

 pedestrianー確かに、辞書を引けば「歩行者」「歩行の」等と並んで「平凡な」という訳語が記されている。
だが、英語を母国語としないウィトゲンシュタインが、わざわざこの言葉を選んで伝えようとしたことは何だろうか?

2.
'It is pedestrian.'ー彼が言いたかったことを、次のような断章を併せ読みながら考えて(あるいは空想して)みる。

適用を伴う思考は、一歩一歩と計算のように遂行される。(PGⅠ§110) 

ハーディー「<有限なものは無限なものを理解できない>というのは、明らかに神学的な標語であって、数学的な標語ではない。」(・・・)
ー無限なものを考えることができない<有限なもの>とは、<人間>でも<われわれの悟性>でもなく、計算である。(・・・)
思考は、いわば飛ぶことができるため、歩かないでいることが可能である(er braucht nicht zu gehen)。君は自分の業務を理解していない。つまり、展望(übersehen)していないのだ。そのため、いわば、自分の無理解を、驚くべきことを可能にする、ある媒体の観念に投影する。(Z §273)

 どのような概念も、実際的に使用される仕方(「適用」、「計算」)は、一歩一歩進むように、であって、適用を見失わない限りで、思考もそのように進んでゆく。特別な概念が可能にする魔術的な飛翔などは存在しない。だが、思考によってそれが可能であるかのように思われるとき、本当はわれわれは実践における使用を見失って、現実には前に進めないでいるのだ(病としての哲学)。それと同時に、魔術を可能にする不可思議な媒体の幻影に付きまとわれることになる。

このようなことが浮かんでくる。

3.
übersehenという言葉は、時に、「鳥瞰すること」と訳されることもあるが、実は、そこから連想される飛ぶことにではなく、歩くことに結びつけられていることが、これらの断章から理解される。「展望」とは、あくまでも地表面から足を離さずに行われるものなのだ。(有名な「大地」の比喩を参照。『探究Ⅰ』107)

展望の欠如を埋めようとして、飛翔の夢が呼び込まれる。ウィトゲンシュタインは、大地からの飛翔を夢見ることを戒める。( 『探究Ⅰ』66の「考えるな、見よ」とは、「飛ぼうとするな、現に自分が歩いている様を見よ」と言いかえられるだろう。)

 4.
「展望」に必要なのは飛ぶことではない。
というのも、「展望」で重要なのは、単に眺望を得ることではなく、景観の中を自由に行き来する能力を身につけることなのだから。

 難しいのは、<心理的現象>という諸概念の間を自由に動きまわる(sich auskennen)ことである。
終始障害物に突き当たることなしに、それらの諸概念の間を動きまわることである。
すなわち、人はさまざまな概念の間の類似点と相違点とをマスターしなければならない。ちょうど人が任意の調から任意の調へ移行すること、ある調から別の調へ転調することをマスターするように。(RPPⅠ1054 佐藤徹郎訳)

 彼の携わる「概念的探究」( PPF 338)とは、広がりを持った地域の「展望」(概観)を得ることであって、ある特定の地点にいち早く到達しようとすることではない。だから、次のように言われるのも理解できよう。

哲学者同士のあいさつは、こうであるべきだ:「あわてなさんな」(Culture and Value、p91)

cf.BPPⅡ641、Z382

ただし、あまりのんびりしている暇もなさそうだ。
というのも、

 ひどくゆっくり進むため、別の区域に来たとき前の区域のことをを忘れてしまう者は、景観の地理を展望(übersehen)することを学べない。
(RFM Ⅶ 65 )

 このことも銘記しつつ、進んでゆきたい。