規則の表現

1.

経験的命題と文法的命題を分けるものが「使用」(「扱い」)であるなら、「ある命題を文法として扱うとはいかなることか」、「何がそのような扱いの特徴か」が問題となる。

 これまでの議論は、一つの要点を持っていた:すなわち、全く同様の外見を持つ数学的命題と非数学的命題の、使用における本質的な違いを示すこと、である。(WLFM, p111)

 

さて、いきなり「あらゆる文法的命題(の使用)に共通する特徴」について語るわけには行かない。そもそも、そのようなものが存在するかどうか定かでは無い。ウィトゲンシュタインが言うように、「われわれが言語ゲームの規則と呼んでいるものに対して、実に種々異なった役割が、そのゲームの中で与えられることが可能(PI 53)」のであるなら。

2.

まず、別の方向からの重要な問いについて意識しておかなければならない。
ある言語ゲームの規則は、その言語ゲームにおいて、あるいはその周辺での活動において、あるいはその言語ゲームを観察するわれわれの言語において、どのように表現されるのか?(規則は、必ずしも命題の形をとって表現されるわけではない。)

 けれども、どのような場合にわれわれはゲームが一定の規則にしたがって行なわれていると言うのか、考えてみよう!
規則と言うものは、ゲームにおける教授の補助になりうる。それは生徒に伝達され、その応用が訓練される。―あるいは、それはゲームそれ自体の道具になる。―また、ある規則は教授の際にもゲームそのものの中でも適用例がなく、規則表の中にも書かれていない。ひとは、他人がゲームをしているのを見ながら、ゲームを学ぶ。ところが、われわれは言う。ゲームはしかじかの規則にしたがって行なわれているのだ、なぜなら、観察者はそうした規則をゲームの実際から読み取ることができるのだから―それはゲームの行為が従っている自然法則のようなものだ、と。―しかし、その観察者は、この場合、どうやって競技者のまちがいと正しいゲームの行為を区別するのか。―これについては競技者のふるまいに特徴がある。言いあやまりを訂正しているひとの特徴的なふるまいを考えてみよ。あるひとがそうしているということは、われわれがそのひとの言語を理解していなくても、認知することが可能であろう。(PI 54 藤本隆志訳、自然法➡️自然法則 に訳文改変)

 あるゲームに先立って、その規則が、教授の際に使用されるものの、ゲームそのものがプレイされる時には、何ら参照されることがない、という場合を想像することができる。
それとは異なって、ゲームの最中にも、規則が参照されるような場合を考えることもできる。
そして、参照される規則の表現は、命題の形をしていることも、命題と呼びがたい(例えば)表の形をしていることもあるだろう。


さらに、いかなる形でもプレイ自体とは別に、プレイヤーたちによって規則が表現されることなく、あるゲームがプレーされ続けている、という状況も想像することは可能である。(そのときでも、われわれ観察者が、このゲームにはこれこれの規則がある、と言うことができる場合がある。)

それに対し、例えば「命令」と呼ぶべき行為が存在するゲームがある。その時用いられる言表(すなわち「命令」)が規則の表現と見なしえる場合も、そうでない場合も考えられよう。(cf.BBB p95-96,(33),(34))

 これらのテーマは、例えば『茶色本』(BBB p95~98)で具体的な言語ゲームを例として展開されている。


さらに遡って、『文法』より。

 一方では、表にてらしてそれに従ってやってゆく場合、他方では、表を利用することなくそれと一致して行動する場合、この二つのあいだを区別しなければならない。―規則を習得したことによってわれわれは今かくかくに行動するようになった、という場合のその規則は、われわれの行動の仕方の原因であり、前史であって、われわれにとっての関心事ではない。―しかし、規則がわれわれの行動の仕方の一般的記述であるかぎりでは、それはひとつの仮説Hypotheseである。すなわち、例えば、将棋盤にむかっている二人はかくかくに行動する(駒を動かす)だろう、という仮説である。(その際、ゲームの規則に違反することも、その仮説のなかに入っている。なぜなら、ゲームをしている人が違反に気づいたときどんな振舞をするかについても、その仮説は告げるところがあるからである。)しかしまた、ゲームをする人が一手ごとにいつも、どうやるべきかに関して参照する、といった具合に規則を利用することもありえよう。この場合は、規則がゲーム行動そのもののなかに入ってきているわけであって、規則とゲーム行動との関係は、仮説とその実証との関係ではない。-ところがここに厄介なことがある。というのは、規則一覧表を利用せずにゲームをし、そんなものは見たことがないという人でも、求められれば、彼のゲームの規則をあげてみせることができよう。しかもそれは、彼が観察をかさねることによって、ゲームのこの状況、あの状況においてどう行動するかを確認する、という仕方でやるのではなくて、駒を動かす現場で「この場合にはこう動かすのだ」と告げる、という仕方でなのである。(PGⅠ43 山本信訳)

 今後の問題を先取りする形で、ここでウィトゲンシュタインが取り上げている2つのことに注意しておきたい。

一つは、規則の命題と、ゲームの記述との関係である。

 しかし、規則がわれわれの行動の仕方の一般的記述であるかぎりでは、それはひとつの仮説である。すなわち、例えば、将棋盤にむかっている二人はかくかくに行動する(駒を動かす)だろう、という仮説である。(PGⅠ43 山本訳)

ところが、われわれは言う。ゲームはしかじかの規則にしたがって行なわれているのだ、なぜなら、観察者はそうした規則をゲームの実際から読みとることができるのだから―それはゲームの行為が従っている自然法則のようなものだ、と。(PI 54 藤本訳、上記のように訳文改変)

 もう一つは、規則が、プレイヤーによって「表出」される場合があることである。

 ところがここに厄介なことがある。というのは、規則一覧表を利用せずにゲームをし、そんなものは見たことがないという人でも、求められれば、彼のゲームの規則をあげてみせることができよう。しかもそれは、彼が観察をかさねることによって、ゲームのこの状況、あの状況においてどう行動するかを確認する、という仕方でやるのではなくて、駒を動かす現場で「この場合にはこう動かすのだ」と告げる、という仕方でなのである。(

PGⅠ43 山本訳)

「観察によらずして」という点に注意しておこう。