意図的行為の言語表現

1.

ウィトゲンシュタインは、意図の表現を意味的関係の表現と比較する中で、見過ごし得ない重要な差異について指摘している。

 私はある人に眼で合図を送る。わたしはそれが何を意味するのかを後になってから説明することができる。「私はそのときこのような意図をもっていた」と言うとすれば、それは、私がその表現を動作の開始とみなしていたということにほかならない。私はその表現を在来の規則の助けを借りて説明しているのでもなければ、また合図の将来の使用を規制すべき定義によって説明しているわけでもない。私は「この合図はわれわれの所ではこういうことを意味する」とも「それは将来こういうことを意味するはずだ」とも言ってはいない。それゆえ、私はいかなる定義をも与えてはいないのである。(RPPⅡ271 野家啓一訳)

「この合図によって、わたしは君に・・・を知らせようと思ったのだ。」は「さっき、わたしが口を開いたのは、・・・と言いたかったのだ。」に比較すべきだろうか?つまり、:前の文章は、定義ではなく、むしろ、過去の意図の表出なのだろうか?(LPPⅠ137)

「なぜ君は私を見つめたのか?」-「それによって私は、君に、君は・・・であるということをわからせようと思ったのだ」これは、記号的な、いかなる規則も(あるいは、いかなる取り決めも)表現しているわけではない;むしろ、私の行為の目的を表現しているのだ。もちろん、わたしはこの目的に合致する記号を使用することもできたであろう。(LPPⅠ138 cf.PPF290)

 意味の関係の表現「AはBを意味する」におけるAとBの結びつきは、規約的conventional関係と呼べるだろう。
それに対し、意図の表明「CすることによってDしようとした」におけるCとDの結びつきは、一般的には、手段‐目的関係と呼べるだろう。それは、安定した規約的関係でない、アド・ホックな結びつきでありうる。


なおかつ、コンヴェンショナルーアド・ホックの対比で見た場合、諸々の意味の関係や意図された手段‐目的関係の間には漸近的移行が存在する。

意図の記述においても、2つの行為がコンヴェンショナルな結びつきを持っている場合は多い。他方、非日常的な言語表現、例えば詩の中の隠喩を解説して、「’A’はBを意味する」と言う場合があるが、その場合には、AとBの関係は、規約的でない。

2.

「・・・を・・・として見る」の場合も、2つの結びつきは、様々でありうる。

わたしが  画像の中で 球が ‘空中に漂っているのをみる’、 とは何を意味しているのか。
わたしにとって、この記述がもっとも身近で当たり前のものである、ということだけであるのか?否;そうである理由もさまざまであり得る。たとえば、それが単に慣習的な記述であるからかもしれない。(PPF169)

 その結びつき一般をを一言で言い表すことはできない。cf.PPF168
2つの・・・の結びつきは、堅固な、慣習的なものでもありうるし、アド・ホックな場合もありうる。ここでも移行が存在する。

3.

これまで見てきたように、ウィトゲンシュタインは「・・として見る」ことや表象することを意志的行為に比較した。

ウィトゲンシュタイン自身が試みたかどうか定かではないものの、さらに進んで、意図的行為intentional actionの言語表現と「として見る」という表現との比較を行うのはごく自然なことであろう。
問題となる言語表現は、「・・・の目的で・・・する」あるいは「・・・するために・・・する」である。
つまり、「AをBとして見る」を、「Bの目的でAをする」「BするためにAする」と比較する。


この類比に関する、いくつかのポイントを挙げてみよう。それ以上の考察は今後の課題とする。

①「AをBとして見る」場合、われわれはA、およびBという、2つの対象を眼にするわけではなく、1つの対象を見ている。

 それが我々に興味があるのは、ただ我々が次のことをみてとる助けになるからである。すなわち、「その図形をスワスチカとして見る」という表現は、あれをみたりこれを見たりすること、或るものをそれとは別なものとして見る、従って実質的にはこの過程には二つの視覚的対象が登場している、そういうことを意味しているのではない、このことをみてとる助けになるからである。(Brown Book, Ⅱ 16  大森荘蔵訳p263)

cf.PI 605,606

 同様に、(アンスコムの見解では)「Bの目的でAをする」「BするためにAする」場合、2つのことをしているわけではない。

 ある男が(意志的に)腕を動かし、ポンプを操作し、水槽に飲み水をくみ上げ、その居住者達を毒殺している場合、彼は四つの行為を為していると言うべきであろうか。それともただ一つの行為を為しているのだろうか。「何故?」という問いに対して想定された答えは、その記述がA-B-C-Dという系列を形成することを明らかにしている。すなわち、各記述はそれに後続する記述からは独立しているが、それに先行する記述に依存して導入されるのである。(G.E.M.Anscomb,Intention p45 菅豊彦訳p87)

 ここで現れるのは、意図的行為の、目的-手段関係の構造である。

したがって、四つの記述を持つ一つの行為が存在するのであり、その記述の各々はその広い状況に依存し、各記述は後続する記述と目的-手段の関係になっているのである。つまり、われわれは対応する四つの意志について語ることも、また一つの意志-つまり、我々が目的-手段系列の内に導入した最後の項である、一つの意志について語ることもできるのである。この一つの項を今まで導入されてきたものの最後の項とすることによって、他の記述の下におけるそれらの行為のすべてがそのために為される、その意志という性格がその項に与えられる。(Anscomb,p46 菅訳邦訳p88)

「AをBとして見る」場合、しばしば「Bを見ている」とも言う。
「Bを目的としてAする」「BするためにAする」と言う場合、状況によって、「Aしている」とも、「Bしている」とも言いうる(「4つの記述をもつ一つの行為」)。

ただし、「本当にBを見ているのか?Bと解釈しているだけではないのか?」と問われるように、「本当にBしているのか?Aしているだけなのに、Bしているつもりでいるのではないか?」と問われる場合があろう。

 

※ちなみに、Bをする方法を知らない場合、ある意味では人はBすることを意志できない。(ここで前回触れた「意志する」の多義性の問題が現れる)

Bすること(を意志すること)を可能にするものはなにか?「BするためにはAすればよい、Aするためには・・・」という目的‐手段関係の知識である。これを、「実践的知識」とよぶ。

「実践的知識なくしては、生じてくることがらは、-意志の実現として-記述されない。」(Anscombe,Intention p88)

 

一方では「意志する」の多義性の問題、もう一方では、単に知っていることと見ていることの差異(cf.PPF169,192,196)という問題が現れる。そして、それぞれにおいて「移行」の可能性がみてとれるだろう。

どちらの例においても、AとBのつながりは、規約的なものや強固に慣習的なものから、その場でのアド・ホックなものまで、程度の差を伴った幅の広がりを持っている。

 

「AをBとして見る」も、「Bを目的としてAする」「BするためにAする」も、一定の時間幅のある事象を表現できる。

今まで何度もみてきたように、「見ることは状態である」ことをウィトゲンシュタインは強調する。cf.PPF248

しかし、ここには重要な差異も存在する。

われわれは、「Bを目的としてAする」と言うが、同様の状況の下で、「Bする」とも表現する。

ここで「Bする」の動詞のタイプのアスペクト(Aktionsart)によって、殺害時刻のパズルやimperfective paradoxのような「問題」が生じることになる。

同様の問題は、「・・・として見る」には生じない。「見ている」ときには、「見てしまっている」からである(アリストテレス)。