狙いと関心

1.

 概念の傾斜を理解し、表現することは難しい。(LPPⅠ752)

 前回、ウィトゲンシュタインの取り組んだ課題が、<概念の地形学>という比喩で表現されることを見てきた。
「一つの概念を他の概念に移行させる傾斜を、はっきりと見てとる」(RFM Ⅴ 52)とは、言語ゲームを類似と差異の網の目の中で見ることの言い換えである。

しかし、彼の示そうとした心理的概念の<地形>(あるいは<風景>)は、普段それに気づかずに言語を使っている人々に対し、適切に提示すること自体が、困難なものであった。

たとえば、心理的概念の内の「断層」を示すことに関する次の断章は、彼の背負った課題と苦闘をよく表している。

 子供は「私は今それを知った」とか、「私は今それを聞いている」[という表現]を学ぶ。だが、困ったことに、それらの動機、適用、すべてのことが何と異なっていることか!そもそもどのようにしてその使用を比較することができるのか。相違を示すために、それらをどのように並置したらよいのかを見きわめることは難しい。
相違が甚しすぎる所では、違いを指摘することは困難である。(RPPⅡ55 野家啓一訳)
「だが、知ることと聞くことの違いは、単にそれらの持続の仕方という特徴の中にあるのではない。それらはまったく、根本的に異なっている!」言うまでもないことだ。しかし、「知れ、そして聞け。そうすればその違いに気づくことだろう」とはいえない。(RPPⅡ52 野家訳)

しかしこの膨大な相違は、(私は常にこう言いたいのだが)これら二つの概念がわれわれの言語ゲームの中に全く別の仕方で埋め込まれている(eingebettet)ことに基づいている。そして、私が注意を促した相違は、単にこの一貫して見られる差異を指摘するためにほかならなかった。(RPPⅡ54 野家訳)

とにかくも、ここで一つ重要なことを確認できるだろう。彼の「心理学の哲学」において、心理学的概念の分類の試みは、この「埋め込まれ方の違い」に着目して行われている。つまり、それら心理学的概念が登場する際の言語ゲームの種類の違い、概念としてのカテゴリーの違い、等に着目して。

意図は状況の中に、人間の慣習(Gepflogenheit)と制度の中に、埋めこまれている(eingebettet)。(PI337 藤本隆志訳)

2.
この「埋め込まれ」方の違いは、さまざまに異なったゲームにおける、我々のInteresse「関心」の違い の表れでもある。

諸概念はわれわれを探求に導く。われわれの関心Interesseの表現であり、われわれの関心を導く。(PI570)

われわれは「人間の心理の表出Äußerungenの何に対して、われわれは関心をもつのか」と自らに問う。-自分たちがこれらの言語反応に関心をもつことを自明とみなしてはならない。(RPPⅠ102)

話しているときに話者が持つ体験 への関心と 意図への関心は異なっている。(経験が、心理学者に、「無意識の」意図について教えることはあり得ようけれど。)(PPF282)

「心理学の哲学」に関するテクストを読む時、<関心Interesse>という言葉が一つの鍵となる。

一般的に、ある言語ゲームに先立って、そのゲームの目的が固定的に定められているわけではない。
にもかかわらず、ゲームの実践において、その目的と言うべきもの、言い換えれば「狙い」Witzが見て取れることがあり、それにしたがって、そのゲームにとって本質的なもの、非本質的なものが区別される場合があろう。そのあたりの事情については、次の引用の前後を検討すること。

そのように、私は、ゲームにおいても、本質的規則と非本質的規則を区別しようとするだろう。ゲームには、規則があるだけでなく、狙いWitzもあるのだ、と言うことができよう。(PI564)

 また、『ラスト・ライティングスⅠ』385では、「狙い」Witzという表現の代わりに、目的Zweckについて語られている。

 そうすると、言葉の使用の間にある違いには、本質的なものと非本質的なものとがあるのだろうか。言葉の用途Zweckについて語るときにはじめて、その違いが顔を出すのである。(LPPⅠ385 古田徹也訳)

 <関心>は、そのような目的、狙いに結びついている、といってよいだろう。

3.

『探究Ⅱ』(PPF)とは、心理的概念同士の類似と差異が織り成す関係を展望するための考察の集まりである。
ただし、それは網羅的な分類の試みではない。

 (わたしは、こうした例の全てでもって、何らかの完全さに達しようとしているのではない。心理学的概念を分類しようとするのでもない。こうした例はただ、概念上の不明確さの中で読者が自分で何とかできるようにするためのものである。)(PPF202 cf.LWⅠ686)

心的生活に属するこれらすべての現象を取り上げて論ずるのは、私にとって完璧さを期することが重要であるからではない。むしろ、各々の現象の論述が、私にとって、あらゆる現象の正しい取り扱いに光を投げかけてくれるからである。(RPPⅡ311 野家訳  cf.Z465)

 一方、まさに「心理学の哲学」に取り組む時期の最中(1949年)に、ウィトゲンシュタインはこう告白している。

概念同士の相関の風景を、個々の断片から組み立てることは、わたしには難しすぎる。わたしはきわめて不完全に行えるのみである。(CV p90)

 見方によっては、先に引用したRPPⅡ311やPPF202は、この「風景の組み立て」の不完全さに対する言い訳のようでもある。
だが、同時期(1948年)に、彼は「読者ができることは、読者に任せよ。」(CVp88)とも書き記している。

いずれにせよ確かなのは、ウィトゲンシュタインを読もうとするならば、読者自らが「風景の組み立て」に着手しなければならない、ということである。たとえそれが、ウィトゲンシュタインならぬわれわれにとっては尚一層困難であるとしても。