「叫び」という概念

1.

「心理学の哲学」関連のテクストには、「表出」に類似した、共に「叫び」と訳される2つの言葉、AusrufとSchreiがしばしば登場する。
(この2つの意味の違い、使い分けの有無が問題となるが、とりあえず、ここではまとめて扱うことにする。下に引用したLPPⅠ549を参照。)

 「私は怖い」は、たとえば、単に私の振る舞いを説明するために言われることもあり得る。その場合にその発言は、うめき声をあげることStohnenからはかけ離れている。その上、微笑みながら言われることもあり得る。(LPPⅠ21)

 同じ「表出」であっても、叫びに類する表出と説明として行われる表出には、このように違いがある。

注意すべきは、「叫び」は「表出」と違って、一人称主語の言表には限られないことである。
叫ばれる言葉自体が何らかの記述の言葉と同じ場合もある。そのことを確認した上で、ウィトゲンシュタイン「叫び」の 体験の表現としての側面に注目しているようである。
(ここで言う「体験」とは、ウィトゲンシュタインが規定するところのものであり、例えば意図や思考は「体験」から除外される(cf.PPF279,LPPⅠ810 )。また、ここでの「表現」の意味の多様性に注意する。)

 私が檻のなかの動物に目を向けている。人が私に「何が見える?」と尋ねる。私は、「ウサギだ」と答える。-私が景色に目を向けている。突然一羽のウサギが走り去る。私は「ウサギだ!」と叫ぶ。
そのどちらも、すなわち、報告も叫びAusrufも、知覚および視覚体験の表現Ausdruckと呼びうる。しかし、叫びをそう呼びうるのは、報告とは異なる意味においてである。叫びAusrufは我々から漏れ出てくるのだ。叫びと体験の関係は、悲鳴Schreiと痛みの関係に似ている。(LPPⅠ549 古田徹也訳)

しかし、叫びAusrufーすなわち、言葉の特定のトーンーとは要するに驚きの表現なのだ、という単純な話なのではない。言葉それ自体は、報告の言葉がまさにそうであるように、視覚的な知覚の表現などであったりもするのである。(LPPⅠ550 古田訳)

 上の断章では「言葉の特定のトーン」が、「叫び」を特徴付けるものとして挙げられている。

2.

「表出」と「叫び」の差異について。「表出」は、必ずしも「体験」を表現するものではないが、「叫び」はおそらくは、まず「体験」の表現なのである。

 「私は意図している」は、体験の表明Äußerungではない。
知識や信念の叫びSchreiというものがないように、意図の叫びなるものも存在しない。
しかしながら、しばしばそれとともに意図が始まる決断を体験とよぶことなら、おそらくできるであろう。(RPPⅡ179  野家啓一訳)

 意図は「体験」ではない。その上でなお、意図と体験を結び付ける現象(「決断」)に着目されていることに注意しておこう。

3.

痛みの叫びに対しては通常、「正当化」は存在しない。しかし、次のように、叫びの表す体験内容に対して正当化が存在する場合がある。

 「私はそれを全く別様に見ていた、それに全く気づきもしなかった!」さて、これは叫びAusrufである。そして、それに対する正当化が存在する。(PPF126)

 

 アスペクトの閃きの表現を、「叫び」としてとらえることができるが、同時に「知覚の記述」としてみることも可能である。「知覚の記述」が、事態の報告と体験の報告という二重の役割を果たしうることに注意。

 しかし、ここでその叫びは知覚の記述でもあるから、思考の表現とも呼ぶことができる。-ある対象を眺めるanscauenひとがそれについて考えていないことは可能である;しかし、叫びAusrufで表出される視覚体験をする人は、見ているものについて考えてもいるのである。(PPF139)

そして、これが、アスペクトの閃きが半ば視覚体験であり、半ば思考であるとみえる理由なのだ。(PPF140)